脱サラ美容師の頭の中

29歳で脱サラした転職女性の煩悩を綴ってみた。

緊急事態宣言再発令。

f:id:ric360rat01:20210109000753j:plain

たまにスタイリストとしてモデル撮影のヘアセットをしたりもします。

 

今晩は。

緊急事態宣言が再発令されたという事で

一都三県の皆々様方は

色々な制約をまた余儀なくされる訳ですが

そんな制約が始まる前にと

昨日、一昨日と

居酒屋さんでまぁ頗る呑みに呑みまくった

デザイナーSaeで御座います二日酔いです(←出た)

それこそ息巻いて

っしゃーブログ毎日更新してやるぜぇいっ☆

なーんて意気込んでいた私で御座いますが

即断念してしまった次第で・・・

 

いや、実は一昨日酔っ払いながらギリギリノートPCに指を馳せていたのですが

気持ちはしっかりキーボードに向かっていたものの

顔はしっかりデスクの上に向かっていった

デザイナーSaeです恐れ入ります(←?)

 

そんな訳で2日振りの更新となってしまった事態では有りますが

この二日分の遅れを取り戻せるよう、

頑張りたいと思う次第であります!(敬礼)

 

さて、先日は幼少期の頃のお話をさせて頂きました。

続きを知りたい方もそうでない方も

まぁ暖かく見守って頂ければこれ幸いに御座います。

 

 

前回の話では

遊ぶ時間の無い程英才教育張りに習い事に通っていた私達三姉妹。

故に同級生や家の近くのお友達との交流は学校でしか殆どした事がなく

お家で母親の厳しい教育現場にまみれ

日々を慌ただしく過ごしておりました。

そもそも何故それほど母親が厳しかったのか

当時は考えた事もなく考える余裕も無く

そして自分たちの家庭環境や育てられ方に対して

比較対象を持ち合わせていなかった私達は

全く疑問に思う事は有りませんでした。

 

後に知った話ですが

実は母親は元々かなりの良いお家柄で育っていたらしく

兄弟は8人程居て

母は確か一番末っ子だったのかな??

それこそ兄弟たちはかなりの出来の良い方だったらしく

兄弟の中には指揮者、ヴァイオリニスト、その他諸々

中々のご立派な方だったそうで

こと音楽には五月蠅い家庭だったらしく

母自身も、今でも私は思っておりますが

かなりお歌のお上手なお人でした。

なのでクラシックに関してはかなり耳も良く

また耳が良いので英語の発音なんかはバチクソ上手くて(←言い方な)

学生の頃は学校代表で英語の闘論会(ディスカッション的な?)モノに参加出来た程

成績もかなり優秀だったそうです。

そんな母が、まぁ沖縄という土地柄、民族性の所為なのでしょうか、

19歳でお腹に命を宿してしまった訳ですね。

その時の相手はついぞ私は知る由も無く

母も明かす事もなく

またその当時お腹に宿した子は

私達ではなく、私達からしてみると所謂”異父兄弟”に当たる方なのです。

そうなんです、実は私達の家庭って

母も父も、お互い再婚同士

言ってしまえば、お互い連れ子同士で結婚して産まれたのが

私達三姉妹だったんですね。

なので、本当言うと、私達兄弟、異父兄弟異母兄弟を含めると

全員で6人になるんです。

異母兄弟の兄、姉、異父兄弟の姉、そして私達三姉妹。

割と複雑な家庭環境であったらしいのですが

まぁ私が小学生の頃は良く理解しておりませんでしたし、

そもそも歳が離れすぎていて

異父兄弟異母兄弟達とは一緒に暮らしていなかったので

あんまり考えた事も有りませんでした。

話が脱線しましたが

その母が19歳でお腹に奇跡の命を宿した時、

相手の男性は認知をしなかったらしく

そして元々かなりの良いお家柄だった家庭なら尚の事

親族一同、新しい命の存在を認知する事に反対したそうです。

母は悩みましたが

遂に新しい命を迎える覚悟を決めたそうで

単身で何も持たず、日本本土に上陸する事を決め、

流行の最先端、東京という場所に赴いたそうなんですね。

現代でこそ未婚の母というのは当たり前の事象となっておりますが

50年以上前の当時は、先ず10代で周りの反対を押し切りシングルマザーになる事

そして家族の誰にも頼らず慣れ親しんだ土地を離れ新しい場所に赴く事

それらがどれほど壮絶で大変な事だったか

流石の私も想像しきれない程の覚悟と勇気だったと

今となっては思っております。

最早言ってしまえば勘当されたも同然。

家族の縁を切って、新しい命と共に人生を歩む事を選んだ当時の母親には

尊敬の念を覚える程です。

そんなこんなで、兎に角生きる事に必死だった母親は

手っ取り早くお金が稼げて、且つ住む場所も提供して貰えそうな職種を選ぶしかなかったので

東京の銀座という街で『お水』という仕事に就くのでした。

当時は住み込みというのが割と当たり前だったみたいで

母ももれなく住み込みで自分の子供を育てながら、何とか生計を立てていたそうです。

ここで自慢じゃないのですが、沖縄の人ってそもそも顔が濃くないですか??

母も例の如くかなりの美人さんだったらしく(今は面影は全く御座いません)、

また割と長身(160cm位?)だったみたいで

それはそれは、一度東京の街を出歩くと、スカウトや色んなメンズから声を掛けられたそうです。

見た目も良く、また頭の回転が速いお人でしたので、『お水』の世界でメキメキと頭角を現し、遂にはNo.1にまで上り詰めた始末。

その時代は女の子達の世界ってとっても手厳しいので、

いじめや嫌がらせなんて日常茶飯事だったそうですが、

自分の子供の為に一生懸命働いたそうです。

凄いですよねーーー(←他人事?)

で、何でこんな話をしているかというと。

元々の出来がそこそこ良かった私の母親、それこそ今は当てにならないと言われているIQテストでは、100以上の成績(一般レベルで60~80)を叩き出していたそうで。

なので、本当は、自身の夢は弁護士になる事だったそうで。

ですがお腹に新しい命を宿した時点で、自分の夢が叶う事が無いと悟ってしまった母親。

その夢を、今度は子供達に追わせようと。

そうなんです、私達があれほど英才教育張りに習い事をさせていた背景には

母の個人的な夢、理想、目標の達成を、私達三姉妹を通じて、何とか実現させようと目論んでいた訳なんですねー。

こと私に限っては、実は私も幼少期に、今となっては当てにならないと言われているIQテストを受けさせられ、当時小学1年にも満たない私が叩き出した数字が、120だったそうです。

まーーーーー母親は狂喜乱舞し、舞い上がった訳です。

こいつ、もしかしたら私の夢を叶えてくれるんじゃね?!可能性有りそうじゃね?!(ニヤニヤ)』的な。

そっから鬼の様に教育に励んだというね。

もうね、ちょっと頭可笑しい位厳しかったですからね。笑

小学生の時のテストなんて90点でぶん殴られて外に出されて家に入れて貰えなかった

間違えた問題の何がいけなかったのかを、母親が納得するまで説明させられた

まーーーー、本当に鬼でしたよね。笑

 

今は本当に感謝しています。

あそこまで厳しく育ててくれたお陰で

一般教養と常識、礼儀、そういったモノがしっかりと培われた訳ですから。

書道を習わせてくれたお陰で、今でも字には自信が有りますし、小さい頃から字に触れ合っていたお陰で、活字が好きになりましたし、そのお陰で、本を読むという事が好きになりましたし、本を読んだお陰で、語彙力もつきましたし、

日本舞踊を習わせてくれたお陰で、着物が好きになりましたし、着物という古くからの伝統を敬う気持ち、また厳かな姿勢等も学べましたし、着物を着ていたから、今では美容師として着付けという仕事の幅が広がり、繋がっておりますし。

 

そんなこんなで、長い事、前回お話した『生活を一変する出来事』のお話をしようと思ったのですが、ちょっと疲れちゃったので(←をぃ)

その話は今度こそ、次回にお披露目させて頂こうかと思います。

 

今宵も、長い時間お付き合い下さって有難う御座いました☆

 

誠 感謝感激で御座います。

 

それでは 皆々様

良い夢を☆

 

f:id:ric360rat01:20210109001653p:plain

南浦和武蔵浦和でちょろちょろ徘徊しております。

 

令和参年、火曜日も美容室は営業しております。

f:id:ric360rat01:20210103123750j:plain

名刺はその人の命の様なモノ。私(sae)を表(現)すアイコンそのもの。

今晩は。

今宵も 最近ハマっている氷結の新商品「柑橘オレンジ(←合ってるか分からない)」を嗜みながら

ノートPCに指を馳せている デザイナーSae で御座います恐れ入ります。(←?)

 

引き続き

意気込んで”毎日ブログ更新するぜぇっ!(テヘペロ☆)

と息巻いて宣言したのも後悔し始めている

そんな胸中穏やかではない自分に戸惑いつつも

今日も筆を執っていこうと思います。

 

さて、先日お話しした続きですが

自身の記憶が小学校に上がった時からしかないので

本日は 私がどの様な小学生生活を送っていたか

可能な限り詳細に書き残していこうと思います。

 

その前に、

両親の話なのですが

私は小学生になる頃から父親という存在を知らないで育ちました。

と言いますか、

実際には父親と暮らしたのは小学3年~4年くらいの間だったのかと・・・。

それまで父親不在が当時の一般家庭の常識において

普通ではない』という事を全く知らなかったのです。

そうです、今でこそ当たり前の様にシングルマザーという事象について周知されており、全く不思議ではない現代ですが

30年近く前の当時はとても珍しい事だったんですよね。

そもそも、小学校に上がる頃からやっと自分の記憶がある私なので

それ以前どの様に暮らしていたのか全く分からないのですが

今でも鮮明に覚えているのは、

小学一年生の時に同じクラスのクラスメート達がとても楽しそうに

ブラウン管(←古き良き時代の産物)の向こう側の出来事を話している事に

とてつもない驚愕と焦りを感じたのを今でもはっきりと覚えています。

 

あっかーーーーん!!全然分からへん!!えなに何?!なんの話してるの君達?!てか、え??何も知らん知らんどないしよ!!!(滝汗)(泣きそう)

(↑言っておきますがゴリゴリの埼玉育ちなので関西弁は全く関係有りません。)(をぃ)

ってな具合で、先日話した通り

産まれた時から何故か周りの空気を察知する事に長けていた私、

早々に気が付いてしまった訳です。

あ、これ絶対ハブられるやつやん。」と。

 

そうなんです、恐らく私達姉妹は、

テレヴィジョンという俗物的な人間世界の嗜好品

小学生に上がるまで見させて貰えて無かったんですよね。

ここで薄々お気付きになられる方もいらっしゃるかも知れませんが

そうです、私の母親はバチバチに滅茶苦茶教育に煩く

そして世間体をとてつもなく気にされた

本当に昭和を絵に描いた様な古い古いお人だったんですね。

恐らく父親不在という世間様から噂されそうな自分と自分の子供達を

極力余計な情報を私達に入れさせまいと

かなり手厳しい教育環境に仕立てておりました。

且つ、自分が母親も父親もやらなくてはいけないのだという使命感と責任感も持ち合わせていらしたのでしょう、

今では体罰や摂関に当たる様な出来事もごく普通の日常の一部として

私達は生活しておりました。

 

その様な家庭環境だったので

それはそれは母親にテレビジョンを観させて欲しいとお願いすること

かなりの勇気と根性を要しました

ただ、一つ上に双子の姉貴がいたお陰で

ここぞとばかりに三者結託し

母親に頭を下げて頼み込み、何とか家族の夕食の時間だけ

母親の監修の下、ブラウン管の向こう側の世界に浸れる様になったのです。

 

ですが前述した通り、

私の家庭は母子家庭だったのですが

実は父親の職業が余り世間様に誇れる様な業種では無かったのと

元々父親の地元で私達は暮らしていて

父親は結構な素行の荒れたお人だった様で

割と有名で有ったそうです。

それ故に、母は教育に悪いと

私達が物心つくまで

父親の事については全く話しませんでした。

その点も踏まえて

私達が周りから馬鹿にされない様

立派な教養を持ち合わせられるようにと

小学一年生の頃から

英才教育張りに習い事をさせて貰っていました

まぁ、元々私達がやりたいと言った訳では無かったのですが。苦笑

私達三姉妹は

公文にそろばん教室に書道教室に進学塾

私個人は上記にプラス日本舞踊

姉はプラス剣道ピアノ教室

それぞれ通わされていました。

これだけの習い事に通っていると

先ず一週間の内に本当に休めるのって日曜しかなくて

それ以外の月~土曜は、学校が終わった後に習い事に通い

そして帰ったらお風呂に入り夕食を取って

そのまま布団にダイブする

故に夕食の時間位しか

ブラウン管の向こう側に接せられる機会が現実問題無かったというのが事実ですね。

 

そして日曜は日曜でて、

朝から母親の言われ通り

三姉妹で部屋の振り分けをし、

家の掃除を行わなければなりませんでした。

必ず毎回母親のチェックが入り、

母親の合格を貰えなければ

最初からやり直しをさせられました。

昼食を終えると今度は、私達家族は一軒家に住んでいたのですが

庭と小さな畑を所有しておりましたので

こちらも姉妹で振り分けをし

庭掃除やら畑の雑草取りやらで

分担して掃除を行い

そして日が傾き始める頃には

母が干した洗濯物を姉妹で取り込み

洗濯物を畳んで片付けをする。

必要があればアイロンも掛ける。

それらが終わると、風呂に入り

夕食を取る。

時間があれば進学塾や公文や学校の宿題をやる。

 

・・最早社会人より休めていないんじゃないか説。(それな)

 

という訳で、ほぼほぼ小学生時代、友人と遊んだ記憶が有りません。笑

遊ぶ時間等皆無な生活を過ごしていたんですねー、

今思うと良くやってたわー。(しみじみ)

 

ですがそんな生活を一変するような出来事が

後に起こった訳ですが

それはまた次の機会にお話し出来ればなと。

 

今宵も長い時間お付き合いくださり

誠 有難き幸せ、感謝感激で御座います

 

それでは皆々様

良い夢を☆

 

f:id:ric360rat01:20210105233015j:plain

hi-liteが好きです。

 

令和参年仕事始め。

今晩は。

正月休みの間

鱈腹食って飲んで呑んでは喰ってを繰り返し

怠惰の極みを過ごしていたわたくし

重い重い身体を引きずって令和参年初仕事を無事に終えた

眼力強めの デザイナーSae で御座います恐れ入ります。(←?)

 

そんな私の今年の抱負。

去年から新年を迎えた日に書き初めをすることを決めております私。

あらよっと書してみましたが。。。↓

 

f:id:ric360rat01:20210105005157j:plain

令和参年 私の抱負。

 

これでも小さい頃書道を嗜んでおりました故

多少の筆の心得は有るのですが・・・

やはり書かないと年々腕が下がる一方で御座いますね。

恥ずかしや。

 

さて。

先日思い立ってブログを初投稿させて頂きました。

先日も申し上げた通り

自身の目標や目的の為

掲げる理想に少しでも近付けられるヒントを得られる様

アウトプットを目に見える形で残すという

かなり実験的な部分が多分にあるスタートを切っている訳で有りますが。

 

その中で先ず一つ、出来る限り行いたいのは

なるべく毎日更新しUPする事。

自分の体力が続く限り

可能な限り毎日更新していきたいと思っている所存です。

 

という訳で、

本日は私という個人の

所謂エッセイ的な

自分という人間が何処に生まれどの様に育ちどの様に考えどの様に生きてきたのか

熟々と綴っていこうかなと思います。

勿論一度に全て記載するのは難しいので

何回か、いやむしろ何十回かに分けて(マジか)

ゆっくり書き記していこうかと思います。

 

誤字脱字間違いや意味違いな文章も多く見受けられるかも知れませんが

拝見なさってる皆々様には

ごゆるりとご鑑賞頂ければと。

 

1985年10月1日

埼玉県北葛飾郡松伏町という

最早"○○市"ではなく"△△町"というド田舎に生を受けました私。

ただ自慢じゃないですが出身地はかの有名なプロゴルファー

石川遼』選手と一緒なんですけどね。(ドヤッ)(←?)

 

一つ上に双子の姉がおりまして、

この姉達がまぁ聞くところによると泣くは喚くは(そらそうだ)でとてつもなく手の掛かる双子だったらしく

家族計画を全く度外視して産まれた私

どういう訳かその頃から聞き分けが良かったのかそれとも既に空気を読むという行為を先天的に持ち合わせていたのか

全く手の掛からない、夜泣きも愚図りも殆どしないそれはそれは大人しい赤子だったそうで

『こいつずげー手が掛かんなくて大丈夫そうだからとりま親戚にちょっと預けておいても何かヨユーそうじゃね?』的なオカンの判断で

私は産まれて直ぐ母方の親戚に預けられ、暫くそこで面倒を見て貰っていたそうです。

故に小さい時に食べさせられた食事が結構適当っていうのもアレなんですけど

食の好みがまーーー姉達と真逆になりまして。

そら同じ釜の飯を私だけ食べて居なかった訳ですから

食が違うのは必然な訳ですよね(しみじみ)

 

そして後に気付いたんですが

私、自分の記憶が小学校に進学してからしか無いんですよね。

幼少期の記憶って、どうなんでしょうか、

普通は何歳頃から有るのか、そういう事を余り考えた事も比べた事も無いのですけれど

大体早い子で3~5歳位の頃から有るんでしょうかね?

良く分からないんですけど

決して悲観してる訳でもなくて、どちらかというと客観的に分析してる感覚に近いと言いますか、

なので自分が特別だとかとても可哀想な子だとか

そうい事を申し上げてるつもりでは全くなく。

ただ人って本当にショックな事が有ると

自分という存在を守るために記憶が曖昧になったり

引き出しの奥底にしまって忘れようとするらしいと以前聞いた事を思い出して

もしかしたら小学生になる以前に何か自分にとって大きな出来事が有って

その時に何か大事なモノも一緒に置き忘れてしまった

引き出しの中に閉じ込めてしまった

大人になった今ではそう思えてならないんですよね。

 

まぁ、だからといって過去を穿り返す気は更々御座いませんし

でもこんな風に文字に書き起こすことで

少し整理していけたら良いなと思っている次第で有ります。

 

なので、小学生に上がる以前の記憶が全く無い私は

その頃の事を思い返せないので

次のブログから、小学時代の自分を振り返ってみたいと思います。

 

それでは皆々様、良い夢を。

 

今宵のお酒のあてはこちら。↓

 

f:id:ric360rat01:20210105013611j:plain

寒ブリとサーモンのお刺身盛り合わせ

 

令和参年初投稿。

明けまして御目出度う御座います。

本年度も何卒宜しくお願い致します。(ペコリ)

 

f:id:ric360rat01:20210103134703j:plain

ウィッグカットコンテストの様子

 

さて、令和参年に突入して早3日が経ちます。

お初にお目に掛かる方が多いと思いますので、

簡単なご挨拶を。

 

埼玉県さいたま市浦和にて現在美容師をしております、

デザイナーSaeと申します。

御年35歳、そうです、昭和に生まれてバリバリのアムラー(死語)コギャル(死語)を経た世代であります。

 

生まれも育ちも埼玉、母は沖縄出身、父は埼玉出身の

若干南の血が入った私で御座います。

 

兄弟は1つ上に姉が二人、

そう、姉貴は二卵性の双子で御座いまして、

私は年子で御座います。

 

三姉妹故に小さい頃は三つ子と間違えられておりました。

性格は全く綺麗に正反対な私たち三姉妹で御座います。

 

紆余曲折を経て、現在美容師というクリエイティブ且つ皆様の生活に微力ながら笑顔と感動を与えられる職種に就いておりますが、

そこまでに至る経緯や自分の経験、思考や価値観等を、

御年35歳になって、何か形に残せないかと、

そういう思いで筆を執った次第で御座います。

 

私の夢は、働く女性を応援すること、社会貢献をして地域の活性化

何かコミュニティーを通じて若い世代に夢を与える場を作れること

それらを目標にしているのですが

その夢の実現の為に、アウトプットする方法を

このブログで学べたらなと思っております。

 

大事なのは一歩踏み出す勇気。

 

それを自分という被写体を用いて実践していきたい、

そしてその先に何かを掴めるキッカケになれたらと

かなり実験的なスタートなのですが

ごゆるりと拝見して頂ければ

これ幸いに御座います。

 

 

以後、お見知りおきを。

 

f:id:ric360rat01:20210103135209j:plain

ステイホーム正月。自宅で作ったあん肝。