脱サラ美容師の頭の中

29歳で脱サラした転職女性の煩悩を綴ってみた。

令和参年、火曜日も美容室は営業しております。

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名刺はその人の命の様なモノ。私(sae)を表(現)すアイコンそのもの。

今晩は。

今宵も 最近ハマっている氷結の新商品「柑橘オレンジ(←合ってるか分からない)」を嗜みながら

ノートPCに指を馳せている デザイナーSae で御座います恐れ入ります。(←?)

 

引き続き

意気込んで”毎日ブログ更新するぜぇっ!(テヘペロ☆)

と息巻いて宣言したのも後悔し始めている

そんな胸中穏やかではない自分に戸惑いつつも

今日も筆を執っていこうと思います。

 

さて、先日お話しした続きですが

自身の記憶が小学校に上がった時からしかないので

本日は 私がどの様な小学生生活を送っていたか

可能な限り詳細に書き残していこうと思います。

 

その前に、

両親の話なのですが

私は小学生になる頃から父親という存在を知らないで育ちました。

と言いますか、

実際には父親と暮らしたのは小学3年~4年くらいの間だったのかと・・・。

それまで父親不在が当時の一般家庭の常識において

普通ではない』という事を全く知らなかったのです。

そうです、今でこそ当たり前の様にシングルマザーという事象について周知されており、全く不思議ではない現代ですが

30年近く前の当時はとても珍しい事だったんですよね。

そもそも、小学校に上がる頃からやっと自分の記憶がある私なので

それ以前どの様に暮らしていたのか全く分からないのですが

今でも鮮明に覚えているのは、

小学一年生の時に同じクラスのクラスメート達がとても楽しそうに

ブラウン管(←古き良き時代の産物)の向こう側の出来事を話している事に

とてつもない驚愕と焦りを感じたのを今でもはっきりと覚えています。

 

あっかーーーーん!!全然分からへん!!えなに何?!なんの話してるの君達?!てか、え??何も知らん知らんどないしよ!!!(滝汗)(泣きそう)

(↑言っておきますがゴリゴリの埼玉育ちなので関西弁は全く関係有りません。)(をぃ)

ってな具合で、先日話した通り

産まれた時から何故か周りの空気を察知する事に長けていた私、

早々に気が付いてしまった訳です。

あ、これ絶対ハブられるやつやん。」と。

 

そうなんです、恐らく私達姉妹は、

テレヴィジョンという俗物的な人間世界の嗜好品

小学生に上がるまで見させて貰えて無かったんですよね。

ここで薄々お気付きになられる方もいらっしゃるかも知れませんが

そうです、私の母親はバチバチに滅茶苦茶教育に煩く

そして世間体をとてつもなく気にされた

本当に昭和を絵に描いた様な古い古いお人だったんですね。

恐らく父親不在という世間様から噂されそうな自分と自分の子供達を

極力余計な情報を私達に入れさせまいと

かなり手厳しい教育環境に仕立てておりました。

且つ、自分が母親も父親もやらなくてはいけないのだという使命感と責任感も持ち合わせていらしたのでしょう、

今では体罰や摂関に当たる様な出来事もごく普通の日常の一部として

私達は生活しておりました。

 

その様な家庭環境だったので

それはそれは母親にテレビジョンを観させて欲しいとお願いすること

かなりの勇気と根性を要しました

ただ、一つ上に双子の姉貴がいたお陰で

ここぞとばかりに三者結託し

母親に頭を下げて頼み込み、何とか家族の夕食の時間だけ

母親の監修の下、ブラウン管の向こう側の世界に浸れる様になったのです。

 

ですが前述した通り、

私の家庭は母子家庭だったのですが

実は父親の職業が余り世間様に誇れる様な業種では無かったのと

元々父親の地元で私達は暮らしていて

父親は結構な素行の荒れたお人だった様で

割と有名で有ったそうです。

それ故に、母は教育に悪いと

私達が物心つくまで

父親の事については全く話しませんでした。

その点も踏まえて

私達が周りから馬鹿にされない様

立派な教養を持ち合わせられるようにと

小学一年生の頃から

英才教育張りに習い事をさせて貰っていました

まぁ、元々私達がやりたいと言った訳では無かったのですが。苦笑

私達三姉妹は

公文にそろばん教室に書道教室に進学塾

私個人は上記にプラス日本舞踊

姉はプラス剣道ピアノ教室

それぞれ通わされていました。

これだけの習い事に通っていると

先ず一週間の内に本当に休めるのって日曜しかなくて

それ以外の月~土曜は、学校が終わった後に習い事に通い

そして帰ったらお風呂に入り夕食を取って

そのまま布団にダイブする

故に夕食の時間位しか

ブラウン管の向こう側に接せられる機会が現実問題無かったというのが事実ですね。

 

そして日曜は日曜でて、

朝から母親の言われ通り

三姉妹で部屋の振り分けをし、

家の掃除を行わなければなりませんでした。

必ず毎回母親のチェックが入り、

母親の合格を貰えなければ

最初からやり直しをさせられました。

昼食を終えると今度は、私達家族は一軒家に住んでいたのですが

庭と小さな畑を所有しておりましたので

こちらも姉妹で振り分けをし

庭掃除やら畑の雑草取りやらで

分担して掃除を行い

そして日が傾き始める頃には

母が干した洗濯物を姉妹で取り込み

洗濯物を畳んで片付けをする。

必要があればアイロンも掛ける。

それらが終わると、風呂に入り

夕食を取る。

時間があれば進学塾や公文や学校の宿題をやる。

 

・・最早社会人より休めていないんじゃないか説。(それな)

 

という訳で、ほぼほぼ小学生時代、友人と遊んだ記憶が有りません。笑

遊ぶ時間等皆無な生活を過ごしていたんですねー、

今思うと良くやってたわー。(しみじみ)

 

ですがそんな生活を一変するような出来事が

後に起こった訳ですが

それはまた次の機会にお話し出来ればなと。

 

今宵も長い時間お付き合いくださり

誠 有難き幸せ、感謝感激で御座います

 

それでは皆々様

良い夢を☆

 

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hi-liteが好きです。